慶應鶏肋録

めし、フロ、慶應通信の勉強(卒論)、ついでの雑用とか

【芥川賞直木賞予想 #157-5】市川真人「四時過ぎの船」を読んでみた

市川真人「四時過ぎの船」(「新潮」2017.6月号)、読了。

前回の芥川賞候補作になった「縫わんばならん」に続いてのノミネート。筆力はあろうと思われるのだが、わたしにとって前作は読み切れなかったくらい退屈なものだった。 その〈苦痛〉の記憶が後を引いて、期待値低めで読みはじめた。

主人公の稔は、全盲の兄・浩と二人暮らし。兄はシステムエンジニアだが、稔はプータローである。目が見えない兄の身辺の世話をするという体での無職だが、その身分に自分でも引け目を感じている。

九州の離島にひとり住んでいた祖母の佐恵子が死んで、その遺品整理のために、母親の美穂、浩、稔とで島へ向かう。

物語は死んだ佐恵子の記憶からはじまる。それはやがて稔たちの記憶と入れ替わり、また佐恵子の記憶へと入り替わっていく・・・というように、時間的な〈企み〉のある小説である。 キーワードは「四時の船」。 それは佐恵子が備忘録として残した言葉で、子どもの稔がひとりで島に船で到着する時間のことだった。 しかし、ふたりはささいなことですれ違いになってしまった。

すれ違いの理由は要するに船着き場でふたりが会えなかったゆえのことなのであり、それらのいきさつを懐かしさがにじむ路地を歩きながら、稔は思い出した。 その路地は本来なら佐恵子と稔が手をつないで歩く家路だったのだ。

時を経て、同じ時刻に、稔はその路地を歩いている。つまりは時間を超えて両者は交わっている・・・という企みなのである。

その企みは解るものの、それゆえの退屈さなのか。仕掛けとは別に、キャラクタたちの動きが少ないし、稔の自意識が直截的で明確で鬱陶しく感じられてしまう。 昇華されていない生活半径3メートルを読まされている気がして、もっとスケールの大きな物語を読みたいし、構築できる力がある作家だと思う。