慶應鶏肋録

めし、フロ、慶應通信の勉強(卒論)、ついでの雑用とか

焚き火こそわが天職かな

年越しキャンプ第3日目。撤収日。

朝は6:00すぎに起床したが、昨朝ほどの寒さはない。夜半に風が強く吹いたきり、霜もたいして降りていない。氷も張っていない。 とはいえ寒いことには変わりはないので、まずは食事とともに焚き火の準備。

このキャンプ場では来春までのあいだ、間伐材が無料の薪として提供されるので、せっせと集積場からせっせと運び出して、ノコギリで適当な長さに切り、火にくべていく。

木々はすっかり乾燥していていい火の付き具合だから、くべてもくべてもすぐに灰になってしまう。 だから炎がさかんに上がっているあいだに、せっせと薪の集積場へと足を運ぶ。そしてキャンプサイトへと間伐材を持ち運んで、切る。 そしてまた、火の中へ放り投げる。その繰り返し。

この単調な作業がたまらなく楽しいことに気づく。いやもともと気づいていたのだが、今回改めて感じた。 一連の作業をしていて、まったく飽きないのだ。 ひょっとしてこれは、いわゆる〈天職〉というものではありますまいか。 だとしたら、これは今回の収穫。

じつは今回のキャンプ、わたしは正直行きたくなかった。大晦日まで寒波が到来していることもあって、とにかく寒いと予報であったからだ。寒いのはいやだものね。

しかし、いざ来てみれば、それはそれで楽しい。 今回のキャンプでいちばん良かったなあと思ったのは、焚き火の周りで子どもたちとたっぷりと会話ができたことだ。その中身はほとんどが下らなくて他愛なかったのだが、そういう時間を持てたこと、お互いにコミュニケーションをとれたことだった。 陳腐だが、少しずつ成長しているのだ。しかし成長を感じる人間の〈感じ方〉〈タイミング〉は千差万別だ。

わたしについて言えば、もう去年以上に「火を燃やしたこと」、これに尽きるような気がする。それで満足だ。 それだけかよと言われそうだが、それで良いのである。 間伐材のなかには幹が太く、適当な長さに切れずにそのまま捨てておかれたものがいくつかあった。その木にはたくさんのノコギリの切り込みが残されていた。 その跡を見つけると、切っていきながらも途中で諦めた無念さを感じた。今回の焚き火では、その木々のいくつかに火をつけて灰にした。 灰にすると、それらの無念さが報われるような気がした。今年はしっかりとしノコギリを新調してよかったよ。

11:00チェックアウト。そのままのんびりと帰途に就く。首都高湾岸線は混んでいた。混んでいたのは他の高速も似たり寄ったりだったが。

明日は家人の実家へ。おっとその前に地元の仲間と「川崎七福神巡り」。なかなかのんびりできない。