慶應鶏肋録

めし、フロ、慶應通信の勉強(卒論)、ついでの雑用とか

刺さってきた元日の新聞紙面

昨日からわたしの実家に帰省している。正月三が日を過ぎてものんびりムードが漂う田舎だ。

実家に帰ったからといってどうせ大してやることもないので(そのための休暇だもの)、年始に読めなかった元日新聞のいくつかを持って帰ってきた。 いわゆる全国五紙ではなく、朝日、日経、毎日だけ。申し訳ないが、読売と産経は読む気が起こらなかった。東京新聞は、いまから思えば手にしておいてもよかったかな。

ざっと眺めて、各紙別刷りに力を入れているが、わたしには朝日が半歩進んでいると感じられた。 しかし本紙については、日経がわたしにはその中では刺さった。 紙面全体的に、〈未来展望〉があって、現状の課題を提示する朝日や毎日とは違い、紙面の印象が全体的に明るくしかし単なる脳天気な明るさではないところが見受けられる。おそらくは日本経済全般に活気がある、しかしこの活気はいったいどこへわれわれを導くのかがいまひとつ見えてこないという〈一抹の不安〉が紙面に反映されているのだろう。

毎・朝・日ともに〈平成回顧〉の記事を連載しはじめているが、こちらも毎・朝が重苦しい展開なのに比べて、日経のそれは「かつてはなことが、現在はになっている」という〈未来展望〉型の印象を受けた。

〈未来展望〉がすべて良しというわけではないが、見えない時代にあって新聞は社会の公器だけでなく〈未来へのコンパス〉にもなってくれればいいと思う。

この投稿を書いている傍らで、祖父母と遊び疲れた子どもたちがスヤスヤと寝息を立てている。 この子たちが自立するまであと20年。平成の御世はあと1年ほどで終わることは約束され、短期的には東京五輪へと経済その他が加速するはずだ。 〈ポスト五輪〉を尻目にとらえつつ、いったいこの子らに何を与えて残すことができるだろうかと、その寝姿を見るにつけ、当て所ない考えにとらわれる。

そういう意味で、日経の記事たちはわたしに刺さってきた。