慶應鶏肋録

めし、フロ、慶應通信の勉強(卒論)、ついでの雑用とか

【芥川賞直木賞予想 #158-3】石井遊佳「百年泥」

石井遊佳百年泥」(「新潮」2017年11月号所収)、読了。

離婚後に付き合った男のせいで多重債務者になってしまった主人公の「私」野川は、元夫に借金を申し込んだところ、即座に仕事を斡旋される。

それは、インドのチェンナイにあるICT企業で、社員教育のための日本語の教師をする、というものだった。 かくしてインドに渡りなんとか経験の無い日本語教師をなんとかこなしている「私」だったが、チェンナイの生活も3ヶ月が過ぎところで、100年に一度という大洪水に遭遇する。

洪水から3日目。ようやく水が引いたので、「私」は出勤していくが、その途中にあるアダイヤール川に架かった橋にさしかかると、大洪水の様子を見るべく、大勢の野次馬が押しかけて、橋の上は押し合いへし合いの芋洗い状態となっていた。

洪水の置き土産で、橋の上にはドブ川(アダイヤール川)の川底に積もりに積もっていた大量の川泥が押し寄せ、壁を作っていた。 そしてその泥の塊の中からは、とんでもないものが次々と出てくる。

それは7年間も帰って来ずに母親を心配させていた子供だったり、何十年も眠り続けて(いたらしい)青年だったり。その上空を機械式の翼有人間が飛び始めると、物語は橋の上で一気に現実と非現実とが混沌と混ざり合ってくる。まるで、川泥のひどい臭いに現実のもつ嗅覚が麻痺したかのごとく。

それらの光景を、「マジックリアリズム」と呼んでもいいかもしれない。 そして、それらの光景のなかでは、そこに居る人々は日本語だのヒンドゥー語だのタミル語だの英語だのといった言葉の壁をも易易と乗り越えることができるのだった。

いつもの通勤経路である、500メートルほどの橋で、過去(の記憶も含めて)と現在とあり得たかもしれない人生とが、渾然と混ざり合い、その中を主人公は渡っていく。「私」はそれらを改めて経験し会社へと向かう。

さて、この小説をどう評すればいいかと言えば、やや長いきらいのあるインド滞在レポートなのかなというくらい。 あの「百年泥」は最後はどこに行ったのだろう。泥にはじまったのなら、泥で締めてほしかったなあ。

巧みで斜め上からの視線は個人的には好みだが、これは芥川賞かというと、そうではあるまいという気がする。