慶應鶏肋録

めし、フロ、慶應通信の勉強(卒論)、ついでの雑用とか

テネシー・ウィリアムズ『ガラスの動物園』を読む

5時半起床。猫が五月蝿い。エサ呉れエサ呉れと泣いている。空気が乾いていて、朝の怠さがない。それが少し早起きの理由かもしんない。

夜は、戯曲のワークショップ「はじめて触れる戯曲」。今回はテネシー・ウィリアムズガラスの動物園』(新潮文庫)を読んでみた。

高圧的で保守的で子どもたちに口うるさい、母親のアマンダ。娘のローラは身障者であることからか、引っ込み思案で活動的ではなく、女友だちもましてや男友だちもおらずに、そのまま婚期を逃そうとしている。息子のトムは家庭のためにしたくもない倉庫仕事をやっており、毎晩鬱憤晴らしをしている。

そんな3人の家庭は、テネシー・ウィリアムズの育った環境そのものだったという。この戯曲はそんテネシーの自伝だともいわれているが、いまなお演じ続けられている芝居だ。

本日の講師をして、

女優には2種類のタイプしかいない。アマンダかローラか。

と言わしめたふたりの登場人物の掛け合いのほかに、トムとアマンダ、トムとローラの掛け合いは、スピーカたちを次第に芝居にのめり込ませていってくれた。

最初の方で、ローラ自らが自分が好きだった人に、間違って「ブルーローズ」と言われていたというエピソードがでてくる。この好きだった人は、芝居後段で登場するジム・オコナーで、ローラの高校時代の憧れの人であるが、ローラに「ブルーローズ」すなわち「青い薔薇」と名付けたのは彼である。そして「ブルーローズ」とは「叶わない夢」の暗示である。昔から、薔薇の交配で青色だけは実現できなかったのだ。

その暗示を示されているからこそ、ローラとジムとの会話に切なさを感じるのである。

惜しい。 ワークショップ自体は時間切れで、戯曲を最後まで読めなかった。ブルーローズが花開いてほしいのだが、それはないという未来を、わたしたちは残酷にも知ってしまっている。