慶應鶏肋録

めし、フロ、慶應通信の勉強(卒論)、ついでの雑用とか

(アドベントブックレビュー2018)ディケンズ『クリスマス・キャロル』

チャールズ・ディケンズクリスマス・キャロル』(池央耿訳、光文社古典新訳文庫)、読了。題名だけは知っているけど、読んでないという本のひとつ。ディケンズはこの中編小説で世界的に有名になったという。

クリスマスキャロルとは、キリストの生誕(クリスマス)を祝う賛美歌のこと。主人公のスクルージは、クリスマスを蛇蝎のごとく嫌っている。

「クリスマスおめでとうなんとど戯けたことを口にする脳足りんは、どいつもこいつも、プディングとごった煮にして、心臓にヒイラギの杭を打ち込んで埋めてやりゃあいいんだ」

と酷い言いよう。
当の本人は、ロンドンの下町あたりで「スクルージアンドマーリー商会」という事務所を構えている初老の男だが、そのドケチぶりから周りに、これまた蛇蝎のごとく嫌われている。

いやはや、それにしてもスクルージは並はずれた守銭奴で、人の心を石臼ですりつぶすような情け知らずだった。搾り取り、もぎ取り、つかみ取り、握りしめて、なお欲深い因業爺である。鉄片を打ちつけても盛んな火花を散らすことのない、硬くとがった燧石(ひうちいし)に等しく、腹を明かさず、我が強く、牡蠣のように人づきが悪い。 (中略) 行くところ、必ずその低い体温であたりを冷やすことから、暑い夏の盛りにも事務所はうそ寒く、クリスマスを迎えていくらかなりとも温まることはなかった。

という人となりだ(笑)。7年前の共同経営者であるジェイコブ・マーレイの葬儀においても、彼への布施を渋り、またまぶたの上に置かれた冥銭を持ち去るほどであった。

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クリスマスイブの夜、仕事を終えて自宅に戻ったスクルージのもとに、そのマーレイの亡霊が訪れる。マーレイの亡霊は、金銭欲や物欲に取りつかれた人間が死した後いかに悲惨な運命になるかを、生前の罪に比例して増えた「鉄の鎖」で雁字搦めになった自分自身を見せる。
そして、スクルージが自分以上に哀れな末路をたどらぬよう、改心して新しい人生へと生き方を変えてくれと諭す。
その手助けとして、これから3体の精霊がスクルージを訪問すると伝える。

彼を訪ねる3精霊は、「過去のクリスマスの精霊」、「現在のクリスマスの精霊」、そして「未来のクリスマスの精霊」である。それぞれの霊は、スクルージを、彼のたどってきた(たどるだろう)場所と時間にいざなう。

「過去の精霊」は、貧しくも夢多き少年時代のスクルージと、すれ違いから恋人と別れた青年スクルージを、「現在の精霊」は、スクルージに薄給でこき使われている従業員ボブの、明るくて強い愛で結ばれた家族の情景と、つぎには、当人はスクルージには嫌われているにも関わらず自らは伯父さんが好きで仕方ない、甥っ子フレッドが、知人たちと楽しくディナーを食している姿を見せ、「未来の精霊」は、ボブの薄幸の息子の姿と、スクルージ本人の無残な行く末を見せていく。

過去・現在・未来を体験して、スクルージはついに「改心」するのであるが、3体の精霊との対話は、要するにスクルージの内省と思索の旅である。
スクルージが改心するのは、性格を変えたという単純なものではなく、長い間封印されてきた自我を解放させた結果とみたほうが素直だろう。
そして、ここが肝腎なのだが、スクルージ本人は決して悪人ではない。不正は働いていないし、廉直の人なのである。ただも人付き合いがすこぶる悪く、自分に対しても厳しい分、他人にも厳しいという厄介な性格なのだ。
ストーリィとしてはウェルメイドで単純と言われるかもしれないが、それだけで切り捨てるにはもったいないと思う。ディケンズのいろんな仕掛けを楽しむのがいい。

池の訳は流麗かつ読みやすく、個人的に好み。ディケンズのほかの作品も訳してもらいたいところ。たとえば『荒涼館』とか。彼にによる「訳者あとがき」はこの小説の勘どころを押さえていて、秀逸。