慶應鶏肋録

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(アドベントブックレビュー 2018)マイ・シューヴァル、ペール・ヴァールー『刑事マルティン・ベック 笑う警官』

ネタバレ記述あります。

マイ・シューヴァル、ペール・ヴァールー『刑事マルティン・ベック 笑う警官(The Laughing Policeman)』(柳沢由美子訳、角川文庫)、読了。どこかで聞いたことがあると思ったら、同名の佐々木譲の小説だった。

刑事マルティン・ベック  笑う警官 (角川文庫)

刑事マルティン・ベック 笑う警官 (角川文庫)

スウェーデンのミステリ。1965年の発表から45年ぶりの新訳だそうで(しかもスウェーデン語からの直接翻訳、前回は英語からの重訳)、この本自体はシリーズものの第4作目。これが世界的にヒットとなった。版元からは、この「刑事マルティン・ベック」シリーズが新訳で順次刊行されるという。
シリーズは『ロセアンナ』にはじまって、全10作品(それぞれの巻にはスウェーデンの1年が描かれ、10作品で10年のクロニクルとか)。この作品から刊行することになったのは、これがシリーズ中もっとも評判がよかったからだそうである。
シリーズ全作品が発売決定となった背景には、昨今の古典新訳のブームに加えて、北欧ミステリブームがあるそうで、たとえばスティーグ・ラーソンの「ミレニアム」シリーズ*1はミステリをほとんど読まないぼくでも知っているくらい。
世間的には、1956年発表の『警官嫌い』から始まるアメリカの作家エド・マクベインの「87分署」シリーズと並び称され、警察小説のスタイルを築き上げた名シリーズといわれる、っと。

ストックホルムの街で、ベトナム反戦デモが巻き起こった雨の夜、市バスが鉄柵に衝突し、なかから多数の遺体が発見される。無残にも彼らはほとんど銃殺され、生き残った者はわずかだった。
現場に向かった、ストックホルム警視庁殺人課主任警視のマルティン・ベック刑事は、自分の部下でいちばん若い、オーケ・ステンストルムも犠牲になったことを知る。
部下の死に衝撃を受けつつも、なぜ彼は死ななければならなかったのか。彼はその日非番でありながら、拳銃を所持していた。そして、彼と同棲している恋人は、彼が休日もとらないで仕事をしているとばかり思いこんでいた。

時はベトナム戦争真っ直中。ストックホルム市街では連日過激な反戦デモがさかんに打たれている。初っ端から不穏な空気が描かれる。穏やかで清廉なイメージのスウェーデン社会だが、実態は麻薬犯罪や自殺、売春や移民問題を多く抱えていたという時代背景が示される。
事件が起きたのは、冬の夜。しかも土砂降りの雨のなかだ。時代も陰鬱なら季節も天気も、起きた事件も陰鬱。しかも、登場人物たちも明るいキャラクタではない。

主人公マルティン・ベックは、私生活では奥さんとうまくいっておらず、この作品では風邪を引いていつも鼻をかんでいる。ベテランだけどちょっと風采のあがらない感じ。
彼の同僚たちもそれぞれ一癖あるメンツが揃っている。チームワーク自体は悪くはないが、お互い愛想がいいわけでもないし、チームを明るくしようなんて気配りはさらさらない。仕事はきちっとやるが、それ以上でもそれ以下でもない。それぞれが粛々と事実を探り、関係者に会いに行き、事件や被害者、犯人に思いを馳せる。
しかし生き残った者たちの証言は少なく、得られた手かがりはほとんど意味不明、関係者もわずかだ。手詰まり感のある状況から、彼らがどう動きどう解決に結びつけていくのか。そして捜査の合間合間にそっと差し挟まれる、刑事たちのプライベートがひとりひとりの影を濃くする。

事件はマルティン・ベックが、5年も一緒に仕事をしている部下の、知られざる一面を解き明かしていくことから解決に向けて収斂していくのだが、一見して、刑事たちのバラバラな捜査結果が次第にかたちをなしていくまでのプロセスが読み手を引きつける。時代は古く、派手なアクションなし、名探偵なし、だが、ページをめくる手が止まらないのは、エンタテインメント性を前面に打ち出しながらも、謎解きの設定の妙と登場人物たちの描き分けの巧みさ、人間社会の軋轢を、元新聞記者、雑誌記者の視点を駆使して緻密に描いているからだろう。

作者のマイ・シューヴァル、ペール・ヴァールーのふたりは、元左翼系の社会運動家で、彼らはスウェーデンの高福祉国家体制が揺らぎはじめたことに危機感を覚えて、祖国の変わりゆく姿を小説にとどめようと発意したという。解説の杉江松恋によれば、「全十作で十年間のスウェーデンの社会変化を描くという年代記執筆の意図があった」とのこと。
ちなみに、次回刊行はシリーズ第1作『ロセアンナ』が予定されている。このシリーズ、ぼくは全部買う。

*1:ドラゴン・タトゥーの女』『火と戯れる女』『眠れる女と狂卓の騎士』の三部作。