慶應鶏肋録

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【刺さる読書 #030】佐々木俊尚『自分でつくるセーフティネット』を読んで思い出した、母からの言葉

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佐々木俊尚『自分でつくるセーフティネット 生存戦略としてのIT入門』(大和書房)、読了。

自分でつくるセーフティネット~生存戦略としてのIT入門~

自分でつくるセーフティネット~生存戦略としてのIT入門~

「ただ生きるな、善く生きよ」とは、たしかソクラテスが言ったが、著者は「善く生きる」ということが道徳や倫理や宗教としてではなく、生存戦略として成立する時代がくるとは思っていなかったと驚く。

新しい「情の世界」

氏は1961年生まれで53歳だから、だいたいその半分の人生は「昭和」という時代に属している。
昭和の時代の会社(組織)には、「理の世界」と「情の世界」とのふたつの世界があったという。
論理的には正しくて反論できなくても(「理の世界」)、心の中の感情はそれに反発してしまう。そういう時に、上司や先輩が情けある一言をかけたりする(「情の世界」)。「見てくれてる人は見てる」という言葉のとおりである。

しかし、いまの会社組織や日本全体で「情の世界」がとても乏しくなっている。その一方で、グローバリゼーションという強烈な「理の世界」がぐいぐい押し寄せている。
非正規雇用形態が雇用全体の40%になった現在は、すでに昭和時代の「サラリーマン社会」はとっくに終わってしまって、会社にすべてを捧げていれば大丈夫という安心感はなくなってきた。

会社の終身雇用がだんだん崩壊してきて、若い人が非正規雇用に追いやられて、「情」を維持することができなくなってきています。

そういう状況が、ぼくたちのセーフティネットをとても危うくしてしまった。「何かで失敗したり、自分の身に何か起きても大丈夫」という支えが脆くなっている。

しかしながらどんなに苛酷であろうとけしからんと思おうと、もう後戻りはできない、このまま進まざるを得ない状況なのであれば、グローバリゼーションそのものは受け入れなければならない。
その苛酷な世界を乗り切るために、著者は新しい「情の世界」をつくっていこうじゃないかというのである。

個人は丸裸になっている

著者はまず現代を「インターネットの普及による総透明社会」と鳥瞰してみせる。
インターネット、とりわけSNSで、いまや個人はその性格ごと丸見えになってしまっているという。
サイバーエージェント藤田晋社長は、「ネットはごまかしのきかない丸裸のメディア」だと、自身のブログに書いている。

「ネットでは性格悪いけど、実際会うといい人っていますよね」「ネットでいい人そうに見えるけど、実施には悪どい人もいますよね」と話すプロデューサーに 対して藤田社長は「それは絶対にないよ」と断言しました。
性格悪い人は悪いように伝わって、いい人ぶっている人はいい人ぶっているように、本人は気づかなくとも、そのまんま伝わります。本人も無意識のうちに、投稿内容にも内面が現れます。
ネットでは印象が悪かった人が、会うと良い人だった…というのなら、実はリアルの方 を疑った方がいいでしょう。

SNSでの過去の蓄積が、その人の人となりを物語る証拠になり、それが他者に見えてしまうのだ。思想信条、好み、ライフスタイルはもとより、悪意もすら丸見えになる。
が、同時に善意も丸見えになるということだ。

著者はそれを指して、SNSを活用するというのは、行ったレストランや旅行の自慢をするツールなのではなく、「人間関係を気軽に維持していくための道具」であり、「自分という人間の信頼を保証してくれる道具」だと定義する。
ネットはプライバシーを奪う恐れがあるけれども、同時に有益な情報をもたらしてくれる存在でもある。

もうネットしは異世界じゃなくて、わたしらの生活するこの社会と交わって、人間関係とか生活とかがなめらかにまわっていくためのインフラみたいなものになってきてるってことなんですよ。

生存戦略としての「善い人であること」

著者は、自分たちが生きてきた昭和時代がいかに「箱的なもの」(会社組織、地域など)に守られてきたか、あるいはそれに奉仕してきたかを経験談として語りながら、同時に自分がまさか日々ビジネス戦略にアタマをひねろうとは思いもしなかったと苦笑する。

しかし、「箱的なもの」が与えてきた、「きずな」「強いつながり」はたしかに魅力的なのだが、たとえば転職・独立といったことでそこから外れた者にはひどく冷たいのだと指摘する。
ハーバード大学のマーク・グラベッター教授の有名な理論「ウィークタイズ(弱いつながり)理論」を示しつつ、弱いつながりこそ新しい仕事や情報をもたらしてくれる存在であり、じつは強いつながりからはあまり情報は流れてこないものだという。ちなみに、facebookでは、男女関係もお互いに知っている人間が多いと分かれる確率が高いとか*1

総透明社会においては、自分の善い部分をきちんと情報発信して生きていくのが正しいあり方なのであり、自分の行動が丸見えになってしまうような時代には、「善い人であること」が生存戦略になってくる。
そして「善行を積」めば「情けは人のためならず」が実現し、それが新しい「情の世界」の構築への一歩になると提案する。

まとめ

しかし、著者は最後にクギをさす。
どんな人間も絶対善い人のままでいることはないだろうし、絶対に悪人のままでいることもないだろう。常に人生は「入れ替わり可能」なのだと。いつでも自分という人間は中途半端な立ち位置にいるのだということを自覚すること。

本書のシンプルな結論。

生存戦略として、見知らぬ他人を信頼すること。
生存戦略としての、多くの人の弱いつながり。
生存戦略としての、善い人。
生存戦略としての、自分の中途半端な立ち位置を知るということ。

そういえば、ぼくの母はよく言っていたものだ、「積善の家に余慶あり」と。

*1:二ヶ月以内に破局する確率は、共通の友人が少ない場合より50%も高くなるという。