慶應鶏肋録

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【刺さる読書006】 藤森栄一『心の灯』で感じた、<好きなこと>を守り育てることの大切とさ素晴らしさ

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藤森栄一『心の灯 考古学への情熱』(筑摩書房)読了。

心の灯(ひ)―考古学への情熱 (ちくま少年図書館 10)

心の灯(ひ)―考古学への情熱 (ちくま少年図書館 10)

本書は、青少年向けに書かれた藤森栄一の自伝である(刊行の2年後に藤森栄一はこの世を去る)。僕は不勉強にして藤森栄一という名前を知らなかったが、在野の考古学者である(その名前を冠にした賞がある)。
名前を知らなくても考古学に疎くても、充分楽しめる伝記だ。宮崎駿監督作品「となりのトトロ」で主人公の父親・草壁タツオのモデルといわれているらしい。


明治末に長野県諏訪市の商家の長男として生まれた著者は、親の反対を押し切って中学校に進学する。当時は、「商人の子どもは商人」と行く末が決まっていた。だが、中学校で出会った考古学が、彼の人生を大きく変えることになる。

学問への情熱が人一倍あるからといって、人生が順風満帆である保証はない。ここに書かれている彼の人生は、(青少年向けだからかもしれないが)言葉こそ少ないが、ずいぶんと過酷なものに見える。
古い家の因習に縛られ、学問の方向性に迷い、放蕩を繰りかえす。
地元を離れはするものの、たちまち仕事にあぶれ、生活に困窮し、地元に舞い戻ったりして、自殺を考えたりしたこともあった。
やがて戦争を迎え、戦中は南方に送られて島々を転々とする。ようやく生きて帰って再スタートを迎えたと思ったら、今度は病に倒れてしまう。

そのなかでも、彼の人生は常に考古学とともにありつづけた。民間の学者として、アカデミズムや官界から離れて、ずっと仲間たちと学び、活動していった。
さまざまな困難に遭いながら、そのたびに考古学への情熱の「灯」は消えかかる。
しかし消えかかりながらも、不思議と彼には運がついて回る。いや運というのではあまりに他力本願な言い方だ。それを呼び込んできたのは彼の考古学への情熱に他ならないからだ。

著者の父も祖父も、商人の子は商人になるという束縛のため、自由な人生を生きることができなかった。彼一人が、考古学への「心の灯」によって、一族のなかでその強い束縛を打ち破るのである。
周りもまた彼を支えた。その人生を彩るのは、多くの人との出会いの幸福である。
学校の教師、友人、学問の仲間たち、そして糟糠の妻。登場人物は、豊かな個性をもち、鮮やかにそして愛おしく描写されている。

これから始まるんだ。
つかれたら休んで
いそぐ必要はない。
ほんとうに。
病みほうけたからだで
食うものもなくても
それでも、
私の心の灯は、
消えてはいないから。

あとがきにはこうある。

むろん、自叙伝を読んでいただくほど、私は豪傑でも、偉人でもありません。それどころか、学校はできない、学歴もない、財産も地位もない、それでいて執念ばかり強く、妄執は人一倍というぐあいで、本来なら、まるで他人につまはじきされて終わるべき、まったくの雑草でしかなかったのですが、ここまで来てみますと、すくなくともわたしひとりは、ああよかった、おれという人間は幸福だったと、すこしは誇らしく思っています。
それは、たった一つの理由、少年のときともした心の灯、それはだれだって、きっと一度はともすのですが、世間の荒い風に吹き消されてそのままにあきらめてしまう人が多いなかで、わたしは懸命に油をそそぎ、疲れればじっと休み、じっとじっと、その心の灯を守りつづけてきたからです。

印象に残った場面はいくつかあるが、なかでも考古学に興味のあった伏見宮博英殿下と遺跡発掘を一緒にしたというエピソードは胸を打つ。
縁あって、学生時代に、藤森は伏見宮博英殿下とともに長野での発掘に参加する。最初はぎこちなく皇族に反感も覚えた藤森青年だが、殿下とは年が近いせいもあって短い時間の中でお互いにその距離を縮めていく。

長野を離れるという日、殿下直々に最後の晩餐会に招かれるのだが、その招待は周囲の”配慮”で、直前で取りやめになってしまう。
殿下を最後に見たのは、長野からの御用列車でであった。
その後二人は再会することなく、伏見宮博英殿下は、太平洋戦争で戦死する。

戦争が終わり、いまだったら私も彼を伏見宮博英殿下とよばずに伏見博英君とよぶことができる。そしてお付きの人や、まわりの人たちになんのじゃまもされず、彼と心ゆくまで考古学について語り合えたのである。生きていてほしかった。私は心からそう思う。少年の心にともった大きな夢や情熱、あるいは少年どうしの熱い友情が、戦争などという障害によってむざんにふき消される不幸な時代は、二度とあってはならないのだ。