慶應鶏肋録

めし、フロ、慶應通信の勉強(卒論)、ついでの雑用とか

【刺さる読書010】筒井康隆『創作の極意と掟』が正当な小説作法だと思ったら、すでワナにかかってる(笑)

f:id:zocalo:20140607212751j:plain

筒井康隆『創作の極意と掟』(講談社)、読了。

創作の極意と掟

創作の極意と掟

ちょいとネット検索したら、著者本人のインタビューがアップされていた。

筒井康隆さん『創作の極意と掟』刊行記念インタビュー - YouTube

帯の隅にちょこっと申し訳程度にある、「『文学部唯野教授』実践篇」が見えたときに、その申し訳程度さゆえに、このエッセイが一筋縄ではいかないことを知った。
おおざっぱに言えば、この本はいわゆる文章読本のたぐいだろうが、筒井康隆の、というところで、正当な小説作法であるわけがないことに気がついてほしい(笑)。

「小説作法」に類するものを何度か求められたのだが、いつもお断りしてきた。小説とは何をどのように書いてもよい文章芸術の唯一のジャンルである、だから作法など不要、というのが筆者の持論だったからだ。

小説とは小説であるところのすべてである、といったのは高橋源一郎だったと記憶しているが、その自由さを担保するための作法を経験的に開陳しているというべきだろう。
指南のポイントは全部で31。「凄味」「色気」「揺蕩」「破綻」「濫觴(らんしょう)」、なかには「電話」「遅延「薬物」「幸福」という章立ても見えるぞ。

ぼくなんぞはついつい「薬物」あたりからページをめくりつつ冒頭へと戻ったクチだが、それぞれに書かれている作法云々よりは、筒井自らがすごいすごいと紹介している作品を無性に読みたくなってくる。良質なブックガイドでもある。
「死」の章で語られていた、星新一「殉教」という短編の迫力とは、ヘミングウェイが「白象のような山」で見せた会話の妙味とは、山川方男の「軍国歌謡集」がいかなる”凄味”を表現したのか。なかでも、大江健三郎賞を受賞した本谷有希子『嵐のピクニック』の「奇妙な味」とはなんだろうか。

この文章は謂わば筆者の、作家としての遺言である。

と序言に書いているけれど、誰もそんなことは信じていないだろう。むしろ、後進への《大いなる悪意》と捉えたが、これは飛躍しすぎか。