慶應鶏肋録

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【刺さる読書#024】柴崎友香「春の庭」( 第151回芥川賞直木賞候補作を読んでみる #2)

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柴崎友香「春の庭」(「文學界」2014.6月号所収)、読了。

文学界 2012年 06月号 [雑誌]

文学界 2012年 06月号 [雑誌]

主人公の太郎は元美容師で、しばらくまえに離婚した。いまは世田谷にある、取り壊し寸前の古いアパートに引っ越して住んでいる。
あるとき、同じアパートに住む女が塀を乗り越えて、隣の家の敷地に侵入しようとしているのを偶然に目撃する。注意しようと呼び止めたところ、太郎は女から一風変わった動機を聞かされる。
それは、20数年前に発売された写真集『春の庭』にまつわる話で、太郎はその女の話から、自分もその隣の家に興味を抱く。

抑制された文体がぶれることなく最後までつづく。前半は太郎を中心に展開しつつも、登場人物それぞれの内面に分け入らず、むしろ彼らの住んでいる現在の土地だったり過去のそれだったりを丁寧に描いている。小説内のできごとや人物のいきさつに、淡泊である。
大した事件も起こらずに物語は進行するが、終盤になって、語り手の「わたし」が突然あらわれてきて、読み手はびっくりする。
誰だ、おまえ。

「それな、裏の家やねん」
「へー、そうなんや」
「もっと驚けよ」
「写真に写ってるってことは、その家がどこかにあるのは当然やん」
「ほら、そこ」
 太郎が指さしたベランダの窓に、わたしはソファの上を歩いてたどり着き、外を見た。ブロック塀にも木の枝にも積もった雪と、まだ横殴りに降り続いている雪の向こうに、水色の家の角が見えた。

「わたし」というのは、太郎の姉と推測されるのだが、彼女は姉の視点もとりつつも、彼女自身も知り合えないことがら、たとえば太郎の心中などを語るのである。神の視点も持ち合わせているわけだ。

唐突にこの「わたし」が登場してきたのはいったいなぜなのか、どんな効果があるのか、というようなことをツラツラと考えていると、もしかしたら冒頭からの視点はすべてこの「わたし」の視点なのではないかとも思えてきたりして、「わたし」の登場というのは、結果的にはぼくにはとくに拒否するものにはならなかった。
むしろ、ああ手練れだな、と思った。

作品としてなら芥川賞には合格だろうが、さて問題は著者が15年以上のベテラン作家であることで、これがどう作用するか。芥川賞が新人作家に贈る賞という性格(建前)上、さらに候補作にはデビューしたばかりの作家もいるわけで、これを同じ土俵に乗せるのはフェアなのか。

ついでに言うなら、個人的には前作(?)の『わたしがいなかった街で』(新潮社)をなぜ俎上に乗せなかったのか。作品としては、こちらのほうが大いに優れていると思うのに。

わたしがいなかった街で

わたしがいなかった街で