慶應鶏肋録

めし、フロ、慶應通信の勉強(卒論)、ついでの雑用とか

自分の”文脈”が通じない環境に身を置くことの、大切さと貴重さ

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四万六千日お暑うございます。

昨夜ぼんやりと、東浩紀の新刊『弱いつながり』(幻冬舎)を読んでいたら(そのまえに読んでいた佐々木俊尚の新刊とは真逆のことを書いているので、この本とても面白く読みました)、少し長いこんなくだりがあって。

いまの日本の若い世代----いや、日本人全体を見て思うのは、新しい情報への欲望が希薄になっているということです。ヤフーニュースを見て、ツイッターのトピックスを見て、みんな横並びで同じことばかり調べ続けている。
(中略)
ぼくが休暇で海外に行くことが多いのは、日本語に囲まれている生活から脱出しないと精神的に休まらないからです。頭がリセットされない。日本国内にいるかぎり、九州に行っても北海道に行っても、一歩コンビニに入れば並んでいる商品はみな同じ。書店に入っても、並んでる本はみな同じ。その環境が息苦しい。
(中略)
国境を越えると、言語も変わるし、商品名や看板を含めて自分を取り巻く記号の環境全体ががらりと変わる。
(中略)
そして日本では決して見ないようなサイトを訪れるようになっていく。自分の物理的な、身体の位置を変えることには、情報摂取の点で大きな意味がある。
というわけで、本書では「若者よ旅に出よ!」と大声で呼びかけたいと思います。
ただし、自分探しではなく、新たな検索ワードを探す旅。
ネットを離れリアルに戻る旅ではなく、より深くネットに潜るためにリアルを変える旅。

このあとにつづいて、東さんは「ネットでは見たいものしか見ることができない」と述べていくんですが、このあたりを眺めながら、いま通っている東京藝術学舎のセミナで、ブックディレクタの幅允孝さんの話を思い出していました。

その話はセミナの主旨からは少々ずれていましたが、幅さんはSNSをやってないというのです。
「面倒くさいじゃん」というのがその理由ですが、「でも新聞は毎日とてもじっくり読みますよ」という。全国五紙とまではいかないけれどそれに近い分量を眺めるというのです。

会場からは「へえ」という声が上がりましたが、「あえて(ネットから)情報を入れないようにしている」ときっぱりと言ってました。

そして、「自分の”文脈”の通じないところに、つまりぼくの話の通じない場所に、(自分の仕事である)本を置くということが、いまは楽しいです」というようなことをおっしゃっていた。「ぼくの話の通じない場所」というのを、”容赦ない場所”とも言い換えていましたね。
本の話とは直接関係ありませんでしたけど、そのセミナで印象に残ったコメントのひとつです。

新聞のくだりでは、こんな記事もありましたが、幅さんの話を聞いていると、逆張り行動としての新聞の効能がまだあるのかもしれませんね。
東さんと幅さんの話、情報摂取の仕方、情報への身の置き方という点で、面白く参考になりました。
東さんの本については、また後日。