慶應鶏肋録

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【刺さる読書 #032】東浩紀『弱いつながり』を読んで改めて問い直してみる、現代に「旅」をする意味

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東浩紀『弱いつながり 検索ワードを探す旅』(幻冬舎)、読了。
先日読んだ、佐々木俊尚の『自分でつくるセーフティネット』で、「弱い絆」の持つ強さ、みたいなことを語っていたのだが、同時期に本屋に並んでいた本書のテーマもまた「弱さ」である。

ネットの人間関係はリアルより強固

佐々木と同じように、社会学者のマーク・グラノヴェッターの「弱い絆理論」を東も引いている。
繰り返しになるが、彼は、1970年代の初め頃に、個人が発展していくための情報(転職、独立等)については、親友や家族、あるいは会社組織といった緊密な社会的つながり(強い絆)によって もたらされる情報は、じつはほとんど役に立たず、あまり交流のない知り合い(弱い絆)から得られる情報のほうが、非常に有効であるとの説を展開していった。

それがSNSが広がる追い風のひとつにもなったわけだが、次のくだりを読むと、えっ、と一寸驚いてしまう。

ネットは階級を固定する道具です。
「階級」という言葉が強すぎるなら、あなたの「所属」と言ってもいい。世代、会社、趣味・・・なんでもいいですが、ひとの所属するコミュニティのなかの人間関係をより深め、固定し、そこから逃げ出せなくするメディアがネットです。

このくだり、じつは冒頭にある。そこ(強い絆)から逃げ出すための武器として、SNSがあるんじゃないかと思っていたら、そうではないというのだ。

世のなかの多くのひとは、リアルの人間関係は強くて、ネットはむしろ浅く広く弱い絆を作るのに向いていると考えている。
でもこれは本当はまったく逆です。
ネットは、強い絆をどんどん強くするメディアです。ミクシィフェイスブックを考えてみてください。
弱い絆はノイズに満ちたものです。そのノイズこそがチャンスなのだというのがグラノヴェッ ターの教えです。けれども、現実のネットは、そのようなノイズを排除するための技法をどんどん開発しています。

ネットは「パーソナライズ化」を徹底する方向にむかっているという。
事実、ネットを見ているわれわれひとりひとりの趣味嗜好に沿った情報が、当人をこれでもかと言わんばかりに追い回す。そうではない(と提供サービスが判断した)情報や発言からは遠ざけられている。自分が欲しい情報のみが自分にまとわりついてくるのである。

「ネットでは自分が見たいと思っているものしか見ることができない」のだと。

その結果、弱い絆を見つけられなくなっていく。
ならば、ネットから離れればいいのか、というとそんな簡単な話ではない。それではもとの強い絆のなかに戻っていくだけである。

弱い絆」を獲得するために

東はシンプルに結論を言う。「場所を変え」なさい、と。

検索ワードは、連想から生じてきます。脳の回路は変わりません。
けれども、インプットが変われば、同じ回路でもアウトプットが変わる。
連想のネットワークを広げるには、いろいろ考えるより、連想が起こる環境そのものを変えてしまうほうが早い。同じ人間でも、別の場所でグーグルに向かえば、違う言葉で検索する。
そしてそこには、いままでと違う世界が開ける。世界は、検索ワードと同じ数だけ存在するからです。

たとえば東大に合格したいと、あなたが思うなら、そのためにもっとも効果的なことはなにか。
それは、「東大合格者数の多い高校に通うこと」だと著者はいう。

自分を変えるためには、環境を変えるしかない。人間は環境に抵抗することはできない。環境を改変することもできない。だとすれば環境を変える=移動するしかない。
これは単純です。けれど意外と実践されていない。人間はみな自分の能動性を信頼しすぎているからです。

人間は環境の産物なのである。

環境を意図的に変えることです。環境を変え、考えること、思いつくこと、欲望することそのものが変わる可能性に賭けること。
自分が置かれた環境を、自分の意志で壊し、変えていくこと。
自分と環境の一致を自ら壊していくこと。
グーグルが与えた検索ワードを意図的に裏切ること。
環境が求める自分のすがたに、定期的にノイズを忍び込ませること。

インターネットはこれからもぼくらのまわりに存在しつづけるだろうし、ますます空気のようになっていくに違いない。その利便性やら圧倒的な情報量での優位性やらは変わらないと思うけれど、自分の検索ワードを変えない限りにおいて、そこはあまり代わり映えのしない世界しか存在しなくなる。いつの間にか、固定化された世界が広がることになる。

人生を自由に豊かにするためには、弱い絆は必要なのに、その弱さをネットが排除していく。
その弱さがあってこそ、ネットの強みを活かせるのに。
だから弱さを獲得して、新しい検索ワードでグーグルの予測を裏切ること。するとその先に、また違う風景が見えてくる。

そして、弱さは身体の移動、環境を変えることで獲得することができる。

観光客的な生き方

そのために、著者は「旅」が一番有効だとすすめる。でも世界一周とかバックパッカーといったような、ガチの旅人を目指せというのではない。

世のなかの人生論には二つのタイプがあって、
ひとつは「村人タイプ」、つまりはひとつの場所にとどまって、いまある人間関係を大切にすること、
もうひとつは「旅人タイプ」、こちらは広い世界を見て成功しろという。

しかし著者からすれば、そのふたつともに狭い生き方であり、第三の「観光客タイプ」の生き方をすすめる。

村人であることを忘れずに、自分の世界を広げるノイズとして旅を利用すること。旅に過剰な期待をせず(自分探しはしない!)、自分の検索ワード拡げる経験として、クールに付き合うこと。

著者は、自分が観光客のスタンスで立ち寄ったアウシュヴィッツの経験がその後の自分の仕事に与えた影響を引き合いに出しながら、リアルな「旅」の効能を語っていく。
いや、効能といってはだめだ。それでは旅に過剰に期待してしまっている。
有効性、とでも言い換えるべきか。

ネットには接続するけれど、人間関係は切断する。グーグルには接続するけれど、ソーシャルネットワーキングサービスに切断する。
それは、ネットを、強い絆をさらに強める場ではなく、弱い絆がランダムに発生する場に生まれ変わらせるということでもあります。

強い絆は計画性の世界。
弱い絆は偶然性の世界。

親子関係こそ「弱い絆」の最たるもの

この本をずっと読み進めていった先で、ぼくにはこの言葉が最後に刺さった(やむを得ず中略しているが、そのすべてを読んでいただきたいと思う)。

ぼくには小学生のひとり娘がいます。
(中略)
親子関係は、人間関係のなかでもっとも強いものですが、しかしそれは序文の分類で言えば「弱い絆」の最たるものなのです。
(中略)
偶然でやってきたたったひとりの「この娘」を愛すること。その「弱さ」こそが強い絆よりも強いものなのだと気づいたとき、ぼくは、ネットで情報を収集し続ける批評家であることをやめて、旅に出るようになったのでした。

でも、ここでは東は「チラ見せ」しかしていない。
ここからさきは、リアルに「旅」をしてみる。
そのことこそが、本書をより深く自分の胸元に手繰り寄せることになるだろう。