本棚を整理していて、村上春樹の最新短編集『女のいない男たち』(文藝春秋)がささっているのを見つけて、そういえば今年の春によく読んだなあと思い出した。あれから半年以上。季節は冬にさしかかっている。
そういえばと、加藤典洋『村上春樹の短編を英語で読む 1979~2011』(講談社)を読んだ。
- 作者: 加藤典洋
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2011/08/26
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文芸評論家の加藤典洋が、苦手とする英語で村上春樹の短編を読み、留学生を含む学生たちと英語で行った講義をもとにまとめた評論集。あるいは短編総論といってもいい。
村上作品は従来長編を主軸に語られてきたから(そして著者自身も長編しか論じてこなかった)、こうした取り組みは有難い。レファレンスとしても機能してくれる。
そういった、こちら側(読み手)の便利性の一方で、加藤本人としては、文芸評論家として日本語に依拠してきた活動から離れて、英語のテキストを読むという体験を経ることで、なにか新しい「読書体験」を得ようという気構えがあったようだ。
対象とした短編は80篇(そのうち47篇が英訳済)。
それらを、初期、前期、中期、後期の4つの区分に分けて「短編リスト」としてきちんと整理している。
村上春樹には、長編と長編のあいだに短編を書くというリズムがあり、短編自体が長編のモチーフとなって発展したり、短編が長編に組みこまれたりするケースが散見されるが、この短編リストを眺めると長編と短編の相対的な位置関係のようなものが見えてくるようで、面白い。
『女のいない男たち』は、短編集としては『東京奇譚集』以来になる。『奇譚集』の刊行が2005年9月だから、そこから数えれば約9年ぶりの新刊となるが、短編を書かなかった期間がいちばん長かったのは「人喰い猫」(1991年7月)から次の短編「めくらやなぎと、眠る女」(1995年11月)までの4年半ほどだった。それが、今回のブランクは、結果的に倍の長さになったわけだ。
それに特段の意味づけをするのはあまり意味がなくて、本人が言うように、短編を書くことに興味がなくなったわけではなく、長編を書くことや翻訳に忙しかったというところだろう*1。
村上の「短編を書く」ことにたいするまとまった考えを知る手かがりのひとつは、短編集『めくらやなぎと眠る女』(新潮社)のイントロダクションが相応しい(もうひとつ、『若い読者のための短編小説案内』(文春文庫)が考えられたが、あいにく手元に見つからなかった)。
できるだけ簡単に定義してしまうなら、長編小説を書くことは「挑戦」であり、短編小説を書くことは「喜び」である。長編小説が植林であるとすれば、短編小説は「造園」である。それら二つの作業は、お互いを補完し合うようなかっこうで、僕にとってのひとつの重要な、総合的な風景を作り上げている。緑なす林が心地よい影を大地に落とし、風に葉をそよがせる。あるいは鮮やかな黄金色に染まる。そしてその一方で、花が確かな蕾をつけ、色とりどりの花弁を開き、虫たちを呼び寄せ、季節の細やかな移ろいを知らせてくれる。
解るような、解らないような(笑)。
加藤は、その「造園」のかたちや歴史、そこに込められた作り手の思いをじっくりと俯瞰しようとしている。村上の短編には--短編に限らず、いや村上作品に限らず、作品というものは押し並べてそうだが--人それぞれに思い入れがある。
ぼくの友人は『中国行きのスローボート』あたりの初期作品が好いといい、ぼく自身は最近の、たとえば『眠り』あたりの、あのひんやりとした不気味さが漂う作品を好む。
加藤はこれまでの短編のなかから、マイルストーン的な短編を中心に丹念に読み解いていく。「ひとりの小説家として、いろいろな問題にぶつかり、つまずき、どうやって克服してきたか。それが短編を読んでいくことで見えてくる」と加藤は言う。
最新の短編集を加藤はどう読むのか。あるいは、村上春樹の一連の作品において、どんなふうに位置づけられるのか。読み手それぞれのヒントになる本だと思う。
- 作者: 村上春樹
- 出版社/メーカー: 新潮社
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- 作者: 村上春樹
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