慶應鶏肋録

めし、フロ、慶應通信の勉強(卒論)、ついでの雑用とか

(アドベントブックレビュー2018)樋口一葉「大つごもり」

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先週、クリスマスをテーマにした短編をふたつ紹介したと思ったら、もう暮れのどんづまりである。

クリスマスがハッピーな彩りであるならば、大晦日はどうだったか。
借金があれば大晦日までにその返済の算段をし、新年の餅代に奔走するのが師走の日本の風景だった。

早くに父親と兄を亡くし、一家の大黒柱たらんことを求められた樋口奈津(一葉)も、金策に苦しむ日々を送っていた。
女流作家として、筆一本での自立を目指していた彼女だが、原稿が雑誌に載っても生活はいつも綱渡りだった。やがて彼女は一念発起して駄菓子屋に専念するが、店の経営はうまく運ばない。
生活苦にあえぎながら、その年(1894年、明治27年)の暮れを越すために書いたのが、短編「大つごもり」だった。そこで得た原稿料20円は、一葉自身と家族の年越しにあてがわれた。
 
山村家での辛い下女奉公をしているお峯は、やっともらえた休暇に、伯父の家へと立ち寄る。
伯父は病弱の身のうえで、高利貸しから借りた10円の返済期限が迫っているとお峯に告げる。お峯は、年越しの「おどり(期間延長のための金銭)」のために2円を払うことを伯父に訴えられ、つい引き受けてしまう。山村家に借金するつもりであった。

山村家では、折悪しく主家の総領である石之助が帰ってくる。放蕩息子の石之助と女主人とは仲が悪い。すっかり虫の居所が悪くなった女主人に、お峯は借金を願ってみたが、けんもほろろに断られる。
極まったお峯は、大晦日、山村家の引出しにある20円の札束から、2円を抜き取ってしまうのだった。

拝みまする神さま仏さま、私は悪人になりまする、成りたうは無けれど成らねば成りませぬ。

 
晦日には「大勘定(年末の総決算)」が控えている。勘定されれば、お峯が2円を盗んだことはたちまちバレてしまう。しかし、彼女の盗みは意外な人物からの救済によって露見せずに済むのだった。
 
この短編の最後は、いわゆるハッピーエンドだ。
しかし、そう単純に言い切れない暗さがまとわりつく。お峯の行動もその〈救済〉も、とどのつまりは一時凌ぎにすぎないからだと、読み手は諒解しているからだろう。

「大つごもり」は、現実生活において、生活と金銭との問題に直面した一葉がはじめて「生活とカネ」をテーマにして書いた小説だ。この作品を皮切りに、彼女は「奇跡の14ヶ月」(和田芳恵)と呼ばれる、充実した創作期を駆け抜けて、24歳で散っていくのである。
 

*

少し、暗くなってしまいましたか(笑)。

ですが、「カネか自由か」という古今東西変わらぬテーマは、起業を目指すぼくにとっても決して他人事ではありません。いまは「遠雷」ですが、必ずや身にふりかかってくるものです。

それゆえに「カネか自由か」ではなく、むしろ「カネも自由も」と大きく構えて、恐れるけれども怯まずに新しい年を迎えたいと思います。

今年一年、どうもお世話になりました!
よいお年をお迎え下さい。


○参考文献:日垣隆「一葉に見る『かねか自由か』」(産経新聞2004年12月18日付)
 

【小さな旅】年越しキャンプ(2018-2019)#1

6時起床。
昨日(12/30)から、我が家恒例の年越しキャンプで、千葉・君津のオートキャンプ場に来ている。
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イレブン オートキャンプ パーク

年末大寒波といわれて、ちょっとヒヤヒヤしながら出かけた。
千葉なので雪雨というよりは風と低気温が心配だったのだが、到着した当初は風もなく夕方に多少吹いたものの、けっきょくはその程度で夕飯をつくりはじめた時点ではすっかり収まっていた。気温はたしかに低い(6℃くらい)だったけれど、とにかく風がないことが有難かった。

今回は楽をしてテントを張らずに、ログキャビンを使った。年越しキャンプというと、やや語弊がありますかね。
おかげでテント設営の手間がなく、わたしは〈焚き火〉に〈専念〉できたのでした。
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いちおう、勉強道具一式は持参してきたけれど、昨夜はキャンセル。
安酒ですが、火の周りでゆっくりと味わっています。f:id:zocalo:20181231071943j:plain

(アドベントブックレビュー2018)ジャック・ロンドン『試合ーボクシング小説集』

ジャック・ロンドン『試合ーボクシング小説集』(辻井栄滋訳、現代教養文庫)、読了。ジャック・ロンドンを、『野生の呼び声』や『白い牙』といった動物を主人公にした小説の作者としてしか知らないのは、ちょっと寂しい。ここに収められている短編「ひと切れのビフテキ」(原題 ”A Piece of Steak”)を読んで改めて思った。しかもこの短編集は絶版のようだ。もったいない。
ジャック・ロンドンは生涯で200編もの短篇を書いたといわれている。手がけたジャンルは動物小説だけでなく、冒険小説、ボクシング小説から、社会主義小説、半自伝小説、ホラー小説、ルポタージュなど、守備範囲はかなり広い。作家であり、ジャーナリストだった。

借金をかかえた引退寸前の老ボクサー、トム・キングは若い頃の栄光はすでになく、いまはひと切れのビフテキにもありつけない体たらくだ。今夜の、若いボクサーとの試合になんとか勝って借金を返し、ビフテキにありつこうとしていた。

「頑張ってきてね、トム」と彼女が言った。「あいつをやっつけなきゃだめよ」
「そうとも、やっつけなきゃあな」と彼はくり返した。「それしかねえよ。やっつけりゃあいいんだ」
元気を出そうと笑ってみせると、彼女のほうはいっそう強く夫を抱きしめた。妻の肩越しには、彼のがらんとした部屋を見まわした。滞納した家賃と連れあいと子供たち、この世に持てるものといえばこれっきり。そして今、ここをあとに夜の中へ出かけていこうとしているのは、妻子のために肉を手に入れるためなのだ--それも、機械仕事に出かけていく現代の労働者のようにではなく、太古の原始的で堂々たる動物のようなやり方によって、その肉を戦いとろうというわけだ。

トムは空腹感に悩まされながら、全盛時代だったらタクシーに乗っていった2マイルの道を、今夜は歩いて試合会場に到着する。彼は会場に入りながら、自分が昔ノックアウトした老ボクサーのことを思い出す。その老ボクサーは試合の後、更衣室で泣いていた。
 
今夜の相手は、昔の自分を思わせるような青年ボクサーだ。
試合がはじまった。
青年からは若さと体力にものをいわせての激しい攻撃が繰り出されるが、トムは体力を温存させるためできるだけ動かなかった。ほとんど反撃せず、相手のパンチの威力をそぎながら、ひたすらチャンスをうかがった。

キングの宝は、経験であった。活力が弱まり、元気が衰えてくると、それに代わるものといえば、ずる賢さと、長い戦いから生まれた知恵と、入念な体力の保持であった。余計な動きはいっさいしないばかりか、敵を誘ってその力をなくさせる術をも習得していたのだ。

ラウンドを重ねながらも(20ラウンドもある!)、いっこうにダウンしないキングに、青年ボクサーは苛立ちながらも、執拗にパンチを繰り出していく。
キングはキングで、ところどころで渾身の力をこめたパンチを打つが、青年ボクサーはダウンすんでのところで何度も立ち上がってくる。

若さが勝つんだ--こんな言葉がキングの心にひらめいた。そして、はじめてこの言葉を聞いた時のことを思い出した。ストウシャー・ビルを片づけた夜のことだ。その試合の後一杯おごってくれて、肩を叩いた紳士野郎が、そう言ったのだ。若さが勝つんだ!あの紳士野郎の言った通りだ。ずっと昔のあの夜は、俺が若さだったのだ。今夜は、若さは向かい側のコーナーにすわっている。

キング必殺のパンチは、相手のとどめをささなかった。逆に、青年ボクサーにノックアウトされてしまう。彼はひと切れのビフテキのことを恨めしく思う。そして昔ノックアウトした老ボクサーが、なぜ泣いていたのかをも、まさに身をもって知るのである。
 
さまざまなスポーツをたしなんだジャック・ロンドンだが、ボクシングはとりわけ好きだったようだ。観戦はもとより、妻のチャーミアンを相手にスパーリングしたりもしていたという。
緊張感の途切れない一編だ。老ボクサーと青年ボクサーとの闘いを冷めた視線で描き切り、最後に敗者の哀感漂う姿を誤魔化すことなく書いている。
ここに書かれているキングと青年ボクサーとの闘いのあいだには、余計なものがない。倒すか倒されるかのシンプルなルールだけが、ふたりのその後の運命を分かつのである。その冷厳な原則を作者は最後まで維持した。哀感、ではなく、むしろ、老残、という言葉がキングの背中に叩きつけられる。そして、キングは放り出される。
だが、それを作者の非情さと簡単に言えるのだろうか。
 
 

【卒論】テーマ候補として「ホルスの大冒険」

今日(12/28)から、年末年始休暇に入った。正確には昨日の午後からだったけれど。
ちょっとした雑事を除いて、会社の宿題を抱えていないで休みを過ごすことはほんと久しぶりのことなので、うれしい。やはり、on/offの切り換えは大事。

じつは明後日(12/30)から年末年始恒例の年越しキャンプに出かけるので、大学(慶應通信)の勉強もしなければいけないのだけれど、ソファに座った瞬間に身体のタガがハズレてしまっていることを自覚した。身体が重くて、勉強の気力が湧かない。

ということで、午前中家の掃除を少ししてから寒いこともあって、録り溜めていたTV番組をチラチラ観たりしていた。
ふと思い立って、ずっと買ったまま放置していた高畑勲監督の「太陽の王子ホルスの大冒険」DVDを観ることにした。たしか、大学生のときに観ているはずだが、あまり覚えていない。

太陽の王子 ホルスの大冒険 [Blu-ray]

太陽の王子 ホルスの大冒険 [Blu-ray]

わたしは法学徒だけれど、高畑勲(と宮崎駿)を卒論で取り上げようかと考えていて(ただしテーマが法学部の卒論として相応しいかどうかはまた別の話)、どういう切り口がいいのか思案投首状態だった。

そこで高畑に関する文献をいくつか読んで「ひょっとしてこれはいけるかもしんない」というささやかな感触を自分なりに得たので、まずは映画を観てその感触を確認したくなった。

太陽の王子ホルスの大冒険 (ジブリ・ロマンアルバム)

太陽の王子ホルスの大冒険 (ジブリ・ロマンアルバム)

「ホルス」の映像表現 (アニメージュ文庫 (F‐002))

「ホルス」の映像表現 (アニメージュ文庫 (F‐002))

再見ははたして、どうにも暗い映画で、これは子どもにはしんどいなと思った。興行成績が当時東映史上最低というのも解った。なにより娯楽性が薄いし、「大冒険」というタイトルは羊頭狗肉ではないかと感じた。
とまれ、面白い/面白くない、は卒論テーマとは直接関係ないので、まずはとっかかりとして映画自体を観ることができたのはよかった。あとはこれをどうテーマとして練りあげていくかであるが、年末年始のあいだに自己ブレストしてみますか。

さて、もう1本の映画を。

(アドベントブックレビュー 2018)マイ・シューヴァル、ペール・ヴァールー『刑事マルティン・ベック 笑う警官』

ネタバレ記述あります。

マイ・シューヴァル、ペール・ヴァールー『刑事マルティン・ベック 笑う警官(The Laughing Policeman)』(柳沢由美子訳、角川文庫)、読了。どこかで聞いたことがあると思ったら、同名の佐々木譲の小説だった。

刑事マルティン・ベック  笑う警官 (角川文庫)

刑事マルティン・ベック 笑う警官 (角川文庫)

スウェーデンのミステリ。1965年の発表から45年ぶりの新訳だそうで(しかもスウェーデン語からの直接翻訳、前回は英語からの重訳)、この本自体はシリーズものの第4作目。これが世界的にヒットとなった。版元からは、この「刑事マルティン・ベック」シリーズが新訳で順次刊行されるという。
シリーズは『ロセアンナ』にはじまって、全10作品(それぞれの巻にはスウェーデンの1年が描かれ、10作品で10年のクロニクルとか)。この作品から刊行することになったのは、これがシリーズ中もっとも評判がよかったからだそうである。
シリーズ全作品が発売決定となった背景には、昨今の古典新訳のブームに加えて、北欧ミステリブームがあるそうで、たとえばスティーグ・ラーソンの「ミレニアム」シリーズ*1はミステリをほとんど読まないぼくでも知っているくらい。
世間的には、1956年発表の『警官嫌い』から始まるアメリカの作家エド・マクベインの「87分署」シリーズと並び称され、警察小説のスタイルを築き上げた名シリーズといわれる、っと。

ストックホルムの街で、ベトナム反戦デモが巻き起こった雨の夜、市バスが鉄柵に衝突し、なかから多数の遺体が発見される。無残にも彼らはほとんど銃殺され、生き残った者はわずかだった。
現場に向かった、ストックホルム警視庁殺人課主任警視のマルティン・ベック刑事は、自分の部下でいちばん若い、オーケ・ステンストルムも犠牲になったことを知る。
部下の死に衝撃を受けつつも、なぜ彼は死ななければならなかったのか。彼はその日非番でありながら、拳銃を所持していた。そして、彼と同棲している恋人は、彼が休日もとらないで仕事をしているとばかり思いこんでいた。

時はベトナム戦争真っ直中。ストックホルム市街では連日過激な反戦デモがさかんに打たれている。初っ端から不穏な空気が描かれる。穏やかで清廉なイメージのスウェーデン社会だが、実態は麻薬犯罪や自殺、売春や移民問題を多く抱えていたという時代背景が示される。
事件が起きたのは、冬の夜。しかも土砂降りの雨のなかだ。時代も陰鬱なら季節も天気も、起きた事件も陰鬱。しかも、登場人物たちも明るいキャラクタではない。

主人公マルティン・ベックは、私生活では奥さんとうまくいっておらず、この作品では風邪を引いていつも鼻をかんでいる。ベテランだけどちょっと風采のあがらない感じ。
彼の同僚たちもそれぞれ一癖あるメンツが揃っている。チームワーク自体は悪くはないが、お互い愛想がいいわけでもないし、チームを明るくしようなんて気配りはさらさらない。仕事はきちっとやるが、それ以上でもそれ以下でもない。それぞれが粛々と事実を探り、関係者に会いに行き、事件や被害者、犯人に思いを馳せる。
しかし生き残った者たちの証言は少なく、得られた手かがりはほとんど意味不明、関係者もわずかだ。手詰まり感のある状況から、彼らがどう動きどう解決に結びつけていくのか。そして捜査の合間合間にそっと差し挟まれる、刑事たちのプライベートがひとりひとりの影を濃くする。

事件はマルティン・ベックが、5年も一緒に仕事をしている部下の、知られざる一面を解き明かしていくことから解決に向けて収斂していくのだが、一見して、刑事たちのバラバラな捜査結果が次第にかたちをなしていくまでのプロセスが読み手を引きつける。時代は古く、派手なアクションなし、名探偵なし、だが、ページをめくる手が止まらないのは、エンタテインメント性を前面に打ち出しながらも、謎解きの設定の妙と登場人物たちの描き分けの巧みさ、人間社会の軋轢を、元新聞記者、雑誌記者の視点を駆使して緻密に描いているからだろう。

作者のマイ・シューヴァル、ペール・ヴァールーのふたりは、元左翼系の社会運動家で、彼らはスウェーデンの高福祉国家体制が揺らぎはじめたことに危機感を覚えて、祖国の変わりゆく姿を小説にとどめようと発意したという。解説の杉江松恋によれば、「全十作で十年間のスウェーデンの社会変化を描くという年代記執筆の意図があった」とのこと。
ちなみに、次回刊行はシリーズ第1作『ロセアンナ』が予定されている。このシリーズ、ぼくは全部買う。

*1:ドラゴン・タトゥーの女』『火と戯れる女』『眠れる女と狂卓の騎士』の三部作。

(アドベントブックレビュー2018)カポーティ『冷血』

トルーマン・カポーティ『冷血』(佐々田雅子訳、新潮文庫)、読了。
映画『カポーティ』で、主人公のカポーティを演じたフィリップ・シーモア・ホフマンが死亡した。享年46。その訃報を聞いて、昔書いてあった感想文をサルベージした。
http://news.mynavi.jp/news/2014/02/05/512/

冷血 (新潮文庫)

冷血 (新潮文庫)

『冷血』をはじめて読んだのは、たぶん大学生のときのことで(もちろん、村上春樹の影響)、そのときは龍口直太郎訳版だった。新訳は、映画「カポーティ」の上映にあわせるかのように刊行されている。佐々田訳を手にしたのは読書会かなにかのきっかけで再読の必要があり、瀧口訳よりガラスの曇りがとれたような感じになっている印象を受けた。
 
『冷血』は1966年に発表された。1959年1月、アメリカのカンザス州ホルカムで起きた農場主一家惨殺事件を追った、カポーティいうところの「ノンフィクション・ノベル(実際の事件や事実に基づいて構成された小説)」である。
被害者はみんなロープで縛られ、至近距離から散弾銃で射殺されていた。その事件に興味を抱いたカポーティは6年近くの歳月を費やして綿密な取材を行った。そして犯人2名が絞首刑に処せられるまでを見届けた。 
『冷血』は発売とともにブロックバスター的な売れ方をして、アメリカ文学史上『風とともに去りぬ』以来の成功とまでいわれたという。
 
しかし、一読したときもそうだったが、冒頭から風景や人物の描写がつづき、殺人事件とはあまり関係ないエピソードがこの作品からスピード感とかスリルを減殺しているようにも思える。最終章の精神鑑定のくだりは、どうも余分な感じを受けた。構成としては、この種のストーリーとしては、「逮捕」「じっさいの殺人の描写」「処刑」がそれぞれ山場を作っていくはずだが、殺人の瞬間は意外なほどあっさりとしている。
 
一方で、映画のストーリィは、ずばり「メイキング・オブ・『冷血』」である。カポーティは農場主のクラッターを殺した二人組のうち、ペリー・スミスに接近していく。
死刑判決が当然の彼らにたいして、カポーティは自分と自分の作品のために、彼らから充分な話を聞くまで、死刑執行をさせないように画策する。彼は自分と似たような幼年の境遇だったペリーに肩入れ(同情)していた。

同じ家に生まれ、正面玄関から出て行ったのが自分で、裏口から出て行ったのがペリーだ。

だが同時に、彼は作品が完成するためには、ふたりの死刑が必要だとも直感で感じていた。

○ハリソン・スミス(弁護士)
「<中略> 死刑に関して-その是非について-トルーマンと話しあった覚えはない。この世の終わりまで議論したところで、満足のゆく答えは出ないだろう。
時がたつにつれ、トルーマンはあの二人に心からの共感を抱くようになり、彼らが処刑されるのを見たくなかったんだと思う。あの本に関する限り、彼らが絞首刑だろうが、終身刑だろうが違いはない。彼はただ、最終的な裁定がどうなるか知る必要があった。少なくとも、彼はいつもそういっていた」
ジョージ・プリンプトントルーマン・カポーティ新潮文庫

トルーマン・カポーティ〈上〉 (新潮文庫)

トルーマン・カポーティ〈上〉 (新潮文庫)

トルーマン・カポーティ〈下〉 (新潮文庫)

トルーマン・カポーティ〈下〉 (新潮文庫)

「どうなるか知る必要があった」のは、事件の結末あるいは区切りとしてではなく、自分の作品を完結させるための欠くべからざる一点だったのだろう。
彼は殺人犯であるペリーを愛し、そしてそれ以上に自分を愛していた。そして、後に『冷血』と呼ばれる作品のことを思っていた。優先順位の問題にすぎなかった。

カポーティの旧友であり、事件の取材に同行したハーパー・リーは、映画の最後のほうで、こうカポーティに電話口で言う。

あなたは(彼らを)救いたくなかったのよ。

残酷だけど、彼女がカポーティをよく知っていたという証だろう。自分のために殺人犯を生き延びさせ、自分のために彼らには救いの手を差し出さなかった。
彼は作家として生きることを選択したのだ。

しかし、その”業火”は『冷血』以降、彼の創作意欲を焼き払ってしまったように見えた。『冷血』以降のカポーティは、この作品を超えるような、あるいは超えたと評価されるような作品は遂に書けなかった(口では『叶えられた祈り』がそれだということは吹聴していたが)。

私は、冷血を書くのに五年、それから回復するのに一年かかりました-回復といってよければですが。いまでもあの体験のなんらかの場面が私の心に影を落とさない日は一日もないのですから。(「自画像」、『犬は吠えるI』所収、ハヤカワ文庫)

サマセット・モームは言った、「書けなくなるのではない。人生という鉱脈の中で、素材が作家を見捨てるのだ」と。

○ジョー・フォックス(編集者) 
「ニューヨークへ戻る飛行機で私はトルーマンの隣に座った。彼は私の手を握り、道中のほとんどを泣きつづけた。近くの乗客にはさぞかし妙な光景に思えたことだろう-いい年をした二人の男が手を握りあい、片方はすすり泣いているんだから。長い旅だった。『ニューズウィーク』を読むとか、そんなことさえできなかった・・・トルーマンにずっと片手を握られていたから。しかたなく、まっすぐに前を向いていたよ」
ジョージ・プリンプトントルーマン・カポーティ』)

『冷血』は、ひとつには、善良な一家を躊躇することなく惨殺した犯人の「冷血」を描いた。
そして、ふたつには、殺人犯の人生の暗部を抉りだしながらも、作品のため死刑の延長を望みながら、死刑の実行を望んだ作家自身の「冷血」が感じられた。
ホフマンの、あの甲高い声が、まだ耳の底に残っている。

(アドベントブックレビュー2018)カポーティ「クリスマスの思い出」

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クリスマスを彩る小説の最後は、トルーマン・カポーティ「クリスマスの思い出」。
ここを過ぎれば一気に年の瀬だが、年末年始を迎えても「季節感」がないと感じることの理由のひとつは、われわれがハレの日のために手間ヒマをかけなくなったことにあるのではないか。
いつからわれわれは、年始の準備に時間をとられないようにしてきたんだろう。

でもやっぱり、クリスマスや正月が来るのは心踊るものだ。それが子供であったなら、なおさら。
この短編の主人公・バディー少年も、そのひとりである。
 
毎年11月の終わりごろになると、スックおばさん(もう60歳だ)はクリスマス用のフルーツケーキを大量につくるために台所に立ちはじめる。おばさんと僕は遠い親戚だが、アラバマ州の田舎町で、いろんな事情から一緒に暮らしている。

スックおばさんはそれらのケーキを売るのではなく、親しい人たちにいつも贈る。送り先のリストには大統領の名前もあるくらい。
おばさんと、バディー少年、そして飼い犬のクイニーは、この日のためにちょっとずつ貯えてきたカネをとりだして、ケーキをつくるための準備にとりかかる。森に入ってピーカンの実を拾いにいったり、禁止されているウィスキーをこっそりもらいに行ったり。

クリスマスの準備は、とにかく忙しいけれど、ふたりと一匹はわいわい支度をしていく。
なんとかケーキを焼きおえたら、今度はクリスマスツリーの準備にはいる。森のなかの、二人だけの秘密の場所で、目星をつけておいた樅の樹を切り出してくる。
それを家まで引きずってきて、飾り付けをし、ようやくクリスマスを迎える準備が整うと、ふたりは興奮してなかなか寝付けなくなってしまう。

「バディー、起きてるかい?」と僕の親友が壁ごしに声をかける。彼女の部屋は僕の部屋の隣にある。そして次の瞬間には、彼女は蝋燭を手に僕のベッドに腰掛けている。
「ああ、私はこれっぽっちも眠れやしないよ」と彼女は宣言する。
「私の心は野ウサギみたいにぴょんぴょん跳ねてる。ねえバディー、どう思う? ローズヴェルト夫人は明日の夕食の席に私たちのケーキを出すだろうかねえ」僕らはベッドの上で肩を寄せ合う。
彼女は僕の手をとても優しく握りしめる。「お前の手も以前はもっとずっと小さかったような気がするねえ。お前が大きくなっていくことが、私には悲しい。お前が大きくなっても、私たちはずっと友達でいられるだろうかねえ」。
ずっと友達さ、と僕は答える。

なけなしの貯え(それはわずかに12ドルばかりだ)を、ケーキ作りとその発送代に費やしてしまったふたりには、お互いへのプレゼントを贈るだけの余裕はなかった。
そこでバディーは、ふたり分の凧をつくる。
クリスマス当日、待っていたかのように風が吹きはじめ、バディーとおばさんは凧揚げをしにでかける。
そして、凧揚げの最中に、おばさんはふと悟る。まるで、神様からのプレゼントのように。

「誓ってもいいけれどね、最後の最後に私たちははっと悟るんだよ、神様は前々から私たちの前にそのお姿を現わしていらっしゃったんだということを。物事のあるがままの姿」--彼女の手はぐるりと輪を描く。雲や凧や草や、骨を埋めた地面を前足で掻いているクイーニーなんかを残らず指し示すように--「人がいつも目にしてきたもの、それがまさに神様のお姿だったんだよ。私はね、今日という日を目に焼きつけたまま、今ここでぽっくりと死んでしまってもかまわないよ」

そのクリスマスは、バディー少年が7歳のときの思い出だ。
静謐で、慈しみにあふれたクリスマスが、まるでツリーに飾り付けられたデコレーションのように、具体的であざやかな色彩をもつ言葉や事物で描かれ、貧しい中に豊かさを感じさせるエピソードになっている。

けれど、ふたりの幸せなときは長くは続かない。その予兆が、ふたりの高揚を示した凧揚げのシーンにさりげなく挿入されている。

風が吹いている。僕らはとるものもとりあえず家の下の方の牧草地まで走っていく。そこではクイーニーが一足先に来ていて、骨を埋めるための穴を掘っている(翌年の冬にはクイーニー自身もそこに埋められることになる)。

 
至福の時はいつまでも続かない。ふと姿を垣間見せる不幸を、カポーティは読み手にさりげなくにおわせる。
やがてその予兆のままに、バディー少年とおばさんは離れ離れになることになる。このエピソードのクリスマスはふたりにとっての最後のクリスマスだったのだ。
 

人生が僕らの間を裂いてしまう。わけ知り顔の連中が、僕は寄宿学校に入るべきだと決める。そして軍隊式の獄舎と、起床ラッパに支配された冷酷なサマー・キャンプを惨めにたらいまわしにされることになる。新しい家も与えられる。でもそんなものは家とは呼べない。家というのは友だちがいるところなのだ。なのに僕はそこから遥かに隔てられている。

そして、おばさんも昔のようにはケーキはつくれず、やがてこの世を去っていくことになる。
 

まさにそのとき、それが起こったことが僕にはわかる。その電報の文面も、僕の秘密の水脈がすでに受け取っていた知らせを裏付けただけに過ぎない。その知らせは僕という人間のかけがえないのない一部を切り落とし、それを切れた凧のように空を放ってしまう。
だからこそ僕はこの十二月のとくべつな日の朝に学校の校庭を歩き、空を見わたしているのだ。心臓のかたちに似たふたつの迷い凧が、足早に天国に向かう姿が見えるのではないかという気がして。


評論家の川本三郎は、アメリカ文学の底流には「無垢(イノセンス)への想い」があると指摘した。

自分はすでに汚れてしまった、もう元の場所に帰ることはできない・・・しかし自分は汚れたという喪失と堕落の強い自覚があるからこそ逆に「無垢」に対する憧憬は人一倍強くなる。(川本三郎『フィールド・オブ・イノセンス』(河出文庫*1。)

作家カポーティの人生はスキャンダラスな人生だった。それを誰よりも解っていたのはカポーティ自身であり、バディー少年のような「無垢」な存在にはもう戻れないことも解っていた。
それでもなお、いやだからこそ、自分の人生において、無垢なる存在の象徴だった、バディー少年への想いは強かったに違いない。

カポーティが死の床について、最期に口にした言葉は「バディー」だったという。それを受けてかどうか、彼の葬儀のときその最期を見届けた、友達で女医のジョアン・カーソンは、この「クリスマスの思い出」を朗読した。f:id:zocalo:20151224212346j:plain

*1:ちなみに、この文庫版には村上春樹が解説を寄せている