慶應鶏肋録

めし、フロ、慶應通信の勉強(卒論)、ついでの雑用とか

【刺さる読書#016-2】 岡田斗司夫『プチクリ』を読んで思い至った、あの一言

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承前

素晴らしい作品を作るのは、決して「大いなる才能」ではありません。
それよりももっと問題なのは、「確実な表現力」です。

「才能」と「表現力」は違うのであり、「クリエイタに必要なのは才能ではなく表現力だ」と岡田斗司夫は言う。

表現力とは、文字通り「力」であり、物理学の数式、

F=ma

つまりF(力)=質量×加速度、をもじってあらわすことができる。この伝でいえば、Fが「表現力」であり、mは「才能」になる。
では、加速度をあらわすaとは、なにか。
これは、「コントロール力」にあたる。

つまり、

表現力=才能×コントロール

才能が大きいほうがいいが、大きすぎる才能はコントロールするのがしんどいときも多い。なまじ才能だけが大きすぎると、表現力がさがってしまうことが往往にしてある。才能がありすぎるクリエイタは、こだわりすぎるあまりクライアントの注文通りに作品を仕上げることができず、納期も守れないこともしばしば見られるという。

ここもへえと思ったのだが、才能というのはそんなに差があるわけでなく、「圧倒的な才能」と「まったく才能ゼロ」との差というのは、せいぜい3倍程度くらいだという。天才だと5~10倍くらいの差は出てくるとはいうものの、意外にそんな差がないというのだ。

ただし、と岡田は言う。
「コントロール力」は違う。
その力は、人によって10~100倍の差がある。

よく自分を「才能がない」と言う人がいますが、そういう人は「あんまり時間を使っていない」という場合がほとんどです。
「年中、そのことを考えてる」
「時間がありさえすれば、すぐに手を動かしだす」
こういう人は、あっという間に上手くなります。
(中略)
その作品の完成度・素晴らしさというのは「いかに自分の才能と努力を、効率よく作品内に定着できたか」で決まります。

前述したキングの「ナイフを研ぎ続ける」を思い出す。
そして、地球物理学者の故・竹内均の例をあげて、このコントロール力を養うのは「継続すること」とも示しているのだが、じつはそれだけがコントロール力をつける源ではないというのである。

では、その源とはなにか。
それは、「なりたい自分を名乗ること」という。

クリエイターの世界は『言ったもん勝ち』の世界です。人が言ってくれるまで何年も待つより、思い切って自分で言うべきなのです。言えばたちまち、その瞬間からあなたはクリエイターになるんです。

決意と覚悟が、その人の行動を変えて、その人を育てるというのである。よく「地位が人を育てる」と言うけれど、それに似てるかも。

「私はクリエイターである」という決意。
「私はクリエイターだから」という自覚。
どれだけ本気で決意できるか。どれだけ腹の底から自覚できるか。
必要なのは、だったそれだけです。

ここまで読んで、ぼくが思い至ったこと、それはかつてぼくの師匠が言った言葉「近道はないが王道はある」でした。