慶應鶏肋録

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【刺さる読書019】早川義夫『ぼくは本屋のおやじさん』のボヤキは、いまのぼくにとても優しい

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早川義夫『ぼくは本屋のおやじさん』(ちくま文庫)、読了。単行本は1982年に晶文社から、シリーズ〈就職しないで生きるには〉の1巻目として刊行された。

早川はロックバンド<ジャックス>のボーカルとして活躍したが、22歳(1969年のことだ)にバンドから離れた。
解散後の1972年に川崎市内に書店を開業し、“本屋のおやじさん”となった。
この本は、書店主として店を切り盛りして いた22年間の書店業あれこれについて書いたエッセイ集だ。今回の文庫版ではこの単行本の内容に、1994年に再び歌手活動を開始するまでをつづったエッセイを増補している。

http://www15.ocn.ne.jp/~h440/index.html

実際、本屋をはじめる前に夢に描いていたことは、店は小さく、たばこ屋兼本屋みたいな、できれば、好きな本だけを集めたような、あまり売れなくてもいいような、猫でも抱いて一日中坐っていれば、毎日が過ぎていくような、そんなのどかなことを考えていた。

人と喋らなくともすむ生活がしたいと思ってはじめた本屋だが、思っていたのと実際とはずいぶんな開きがあった。
変なお客さんに変なクレーム、人付き合いの苦労の連続が待っていた。接客のつらさだけでない。欲しい本が入らない、なのにいらない本は入ってくる。

本屋というのは、売れなければ、欲しい本が回ってこないしくみなのだ。
欲しくもない小品は、たのまなくても送ってくるが、欲しい本が送られてこないということは、これはかなり重要なことで、こういう品揃えをしたいとか、この分野だけは完璧に揃えたいと思っても、それがすぐには不可能となると、猫を抱いているわけにはいきません。(改行引用者)

書かれたのはもう30年まえの本屋の風景。
ネット書店やコンビニが台頭している2010年代、中小の本屋さんの経営はますます苦しい。
2013年5月時点での国内の書店数は14,241店。1999年には22,296店だったから、この15年間で8000店以上も減ったことになる(日本著者販促センター調査による)。ネット書店最大手のアマゾンは、2012年の日本国内の売上だけで7300億円超だ(米アマゾン本社の年間報告書より)。

書籍や雑誌は、「出版社→取次会社(卸業者)→書店」というルートを経て、読者に届くようになっている。取次会社が店舗規模や過去のデータ、地域特性などを考慮し、どの書店にどの本をどれくらい「配本」するかを決める。
これを「パターン配本」と呼ぶ。書店の仕入れ作業自体は効率できて無駄がなくなるが、取次会社任せの仕入れになるので、商品(本)の品揃えで店の独自色を打ち出すことは難しくなる。
出版社側が「この書店にはこの本を*部配本する」と指定する(これを「指定配本」という)配本もあるが、出版社が全国すべての書店を把握することはできない。
パターン配本は必ずしも平等に行われるわけではなく、大型書店には新刊や話題の本が大量に平積みされるのに、地方の中小書店には1冊も配本されないという事態も起きている。客が店頭注文しても取り寄せまでに2週間近くもかかることはしょっちゅうだ。

同じような悩みは30年前にもあって、早川はそのことをエッセイにネタとして書いていた。

その筆調は舌鋒鋭くというよりは、ほとんどオヤジのボヤキである。
そしてこの作者は不器用だ。本屋というか、そもそも商売に馴染めないと自覚しつつも、なんとか悪戦苦闘して(でも決してポジティブじゃない。どこかで諦めているし頑張らない)店を切り盛りする姿が、ぼくには愛おしく思えた。

十代のころは、人より変わったこと、人と同じじゃいやだという生意気な気持ちがあったが、二十を越してから、この世で一番素晴らしいことは、ふつうであること、と思うようになった(もしかすれば、もっと生意気になってしまったのかもしれないのだが)。
もちろん、人それぞれ違いがあって、僕の考えるふつうは、ふつうでないかもしれないが、一見変わってて、中味はふつうというよりも、一見ふつうで、中味はちがうという方に、僕はあこがれる。
この話と品揃えとは関係ないかもしれないが、三十を越して言いきることの自信が持てなくなってきた。

なにかが足りない、足りないといった感じで、まるで、自分の駄目な部分や、寂しさを補うかのように、ものを増やしたりするけれど、本当は、足りないのではなく、よけいなものが多かったのだ。
いつも、そう思う。
そして、また、そのことは忘れ、あれもこれもと欲しがってしまう。その繰り返しである。

早川書店があったのは、南武線武蔵新城駅前だ。ぼくの地元からすぐ近く。
でも、もうそこを訪れることはできない。