慶應鶏肋録

めし、フロ、慶應通信の勉強(卒論)、ついでの雑用とか

回想の江戸川乱歩(1) ~面白い小説を見つけるために #2

さて、先日、読書会が終わった後の懇親会でのこと。参加者の方たちと、小学生のときには何を読んでいたかという話に、たまたまなった。
参加者は、みなさん30代、わたしより10歳は若い。口から出てきたのは、やはりというか、ドイルと乱歩だった。ルパンの名前にはあいにく聞くことはなかった。 参加者のおひとりは、乱歩についてブログでこう書いている。
2016年元日、江戸川乱歩作品の著作権が切れた。これによりいろんな作品が従来よりも自由に読めることになるが、その効果かどうか、2016年5月から1年にわたって集英社から江戸川乱歩明智小五郎事件簿」シリーズが連続刊行されている。
明智小五郎がはじめて登場した「D坂の殺人事件」から、事件発生順に並べた全12巻シリーズ企画。せっかくなので、最初から読んでみることにしよう。ぼく自身は乱歩をほとんど読んでいないのだ。
一口に明智小五郎と言っても、「D坂の殺人事件」の発表は1924(大正4)年である。じつに93年前だ。 唐突だが、先の大戦に時計を戻すと、戦時中は〈探偵小説〉は店頭に並ばなかった。紙の不足もあったが抑圧されていた。抑圧というのは、検閲がやかましく、重版もかかりにくくなったという意味である。それが昭和14年からというから、作家にとっては窮屈だったに違いない。 その反動か、敗戦ののちに早々と復刊を遂げていく。
書店の棚に、ホームズ物やルパン物がならんだのは、昭和二十一年早春からだったと思う。「バスカービルの犬」が「妖犬」という署名になっていたから、昭和四年から出た平凡社版「世界探偵小説全集」の紙型を流用したものであろう。 ルパン物は、保篠龍緒訳で、第一回配本が「怪紳士」だった。「妖犬」も、ルパン・シリーズも、文庫サイズであり、つづいて、海野十三江戸川乱歩の文庫本やB6判が書店に溢れた。(江戸川乱歩の著作目録をみると、昭和二十一年度だけで、旧作が約二十点、出版されている。〈後略〉)
小林信彦『小説世界のロビンソン』からの引用だ。小林信彦は小説家、コラムニストである。 彼は若かりしころ、当時江戸川乱歩が社主だった、推理小説雑誌「宝石」に「雑誌の改善案」のアイデアを投稿した。 それが縁で、1959年夏創刊予定だったミステリ雑誌「ヒッチコックマガジン」の編集長に乱歩の後押しで抜擢されることになり、そこから乱歩との関わりが出てくる。
昭和二十一年、小林信彦は中学一年。早熟な本読みだった。
いかに中一とはいえ、幼稚な読者で、同じ年の早春に、「月刊読物」三月号で太宰治--この名前が、まず、読めなかった--の「やんぬる哉」を読み、つまらないユーモア作家がいるものだ、と腹を立てた。 〈推理小説〉という新語が登場するのは、このころである。〈探偵小説〉が〈推理小説〉にかわったのを、漢字制限のせいにする説を見たことがあるが、そうではないと思う。
小林自身は、乱歩についての印象的なエッセイをいくつも書いている。 乱歩の作品で探偵小説好きになったわけではなく、横溝正史『本陣殺人事件』がきっかけらしいが、それはまた別の話で、ここまで来て、わたしは小林の『回想の江戸川乱歩』(光文社文庫)を再読してみることにする。