慶應鶏肋録

めし、フロ、慶應通信の勉強(卒論)、ついでの雑用とか

【四十を過ぎて父親に #2】 妊娠した! 1

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「延長戦に入りました」

M氏(ぼくの連れ合いのこと)の妊娠が解ったのは、2010年4月のことだ。彼女はそのとき42歳、僕も42歳。同い年。
そのときのことを僕は、こんなふうに書き残している。

「延長戦に入りました」(April 10, 2010 10:16:15)

土曜日の日課である太極拳教室から戻って、そのまま仕事に行こうとしたとき、病院にでかけている連れ合いのM氏から、メールが届いた。


 なんとなんと着床しておりました! 正直信じられない~!
 次は5日後に診察だす。まだまだうまくいくかは分からないけど、とりあえず今夜はお祝いだね!
 そして断酒はまだまだ続くのであった。


なんと、妊娠したというではないか。
驚いた。約1年半ぶりのことだ。
つい昨日までは、妊娠の自覚的兆候もなく、本人は「死刑宣告を受けに(病院へ)行くようなものよ」とまったく浮かない顔をしていたのに。
そして夫であるおれも、本人が自覚がないというのならそうなんだろうと、つまりは今回もまただめなんだろうとてっきり思っていたのだ。

それがこのメールだ。
9回裏ツーアウトからの一発逆転である。
ここからは延長戦にはいるのである。

もちろん、予断をゆるさないことは知っている。1年半前だって、胎嚢(たいのう)が見えるあたりまでは行けたのだが、そのちょっとさきで、ミリ単位のいのちは尽きてしまった。
静かに。
そして、われわれの一縷の望みとともに。

流産と聞いて、ベランダでひとり泣いた。
同じことが、またおこるかもしれない。
でも、そんときはまたそんときである。そう強気になっても、そのときが訪れたなら、おれはきっと泣き崩れるだろう。
この1年半のあいだ、うまく受精はできても、着床にはいたらなかった。それが今回は着床までは達成できたのだ。
いまから泣くことはない、少なくとも。

うれしいことはうれしかったけれど、メールにもあるにように、M氏はその1年半まえに流産していた。1年半まえとはいえ、そのときの辛さはまだじゅうぶんに実感として残っていたから、素直には喜べなかった。メールの文面を眺めると、うれしいけれどぬか喜びになるかもしれないことを恐れて、自分の感情を抑制しようとしていることが解る。

ほんとはうれしかったんですよ。
けれど、だめだったときの落胆が怖くて、息を殺すようになるべく喜ばないようにしていた。まだ喜ぶ時じゃないんだと。

なにはともあれ、まずはお祝いしようじゃないかということになって、その夜、銀座でM氏と待ち合わせをした。そして、まえに会社の人に教えてもらったポルトガル料理の店へでかけた。
その時期僕らは験をかついで断酒をしていたので、そこでもふたりともノンアルコールビールで乾杯したわけだが。(つづく)