慶應鶏肋録

めし、フロ、慶應通信の勉強(卒論)、ついでの雑用とか

あなたにいまほんとうに必要なのは、答えを求めることではなく、問いをつくることです

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この春から縁あって、NPO/NGO/地域のリーダー等を支援する会社の業務をお手伝いさせてもらっている。
お手伝いといっても社員の方からヒアリングして、それをまとめるくらいの仕事なのだが、お邪魔するたびに逆にこちらが勉強させてもらっているくらいで、内心とってもうれしいけれど、なんだか申し訳ない気がしている。

先日は、その会社が主催しているセミナープログラムについての、全体説明とか開発背景とか目的とか課題とかをヒアリングしてきた。インタビューイは、そのプログラムに主体的にかかわってきた女性社員さん。

配られた資料には「場づくりのデザイン」とかファシリテータ技術の向上とかが書いてある。主体的に対話する、ともある。
「はいはい、そういうセミナなんだな」と、内心諒解スイッチが入る。

しかし。
よくよく聞いてみると、ぼくが最初に資料からイメージしていた内容とまったく違うことに気がついた。
このセミナのゴールは端的に言うと、
「自分にとってほんとうに主体的に関われる問いを立てる(問題をつくる)」
というのである。「主体的に関われる」という部分を「必要な」と言い換えてもいいだろう。

これは驚いた。

えっ、解答を出すんじゃないの?
みんなが「正しい解答」を「効率的に」出すように、会議(ワークショップ)を導くのがファシリテータなんじゃないの?
みんなが求めているのは、「解答」だよね?
なんで、「問題」をつくるの?
問題はつくるんじゃなく、最初からあって、すでに自明のことだよね?

ここまでざっと5つの?が登場してきたが、なぜこれが「場つくりのデザイン」なの? と6つめの?が浮かぶ。

ほとんどの会社の会議というのは、情報共有という役割の他に、課題解決のための場でもある。課題はなるべく速やかに会社の利益に反せずに解決され、その方法がみんなに提示されることを望まれているし、それが「会社(組織)的には正しい」。
ファシリテータの力は、そのために使われるべきなのでは・・・とぼくは思っているし、大方の人もそうではないか。

しかしえてして、会議あるいはワークショップは終わってみてある結論や解答がでても、どうも自分にとって「しっくりこない」場合が多々ある。で、総論賛成でも各論反対。
あるいは、議論が上滑りして、通り一遍の解答しかでないこともある。さんざん話し合って、それが結論かよ! と憤然とした経験をお持ちの方も多いだろう。

このセミナ開発者は、それは自分にとって「ほんとうに主体的に関われる問題を立てることができていないからだ」という。問題というのは、問題として明らかになったときには、解決方法は見つかったも同然といわれる。

しかし肝腎のその問題(それに関する前提条件等)があいまいだから、自分自身が議論や対話に主体的に関われないし、議論はお互いに平行になりかみ合わず、その結果としてほんとうに納得できる解答が得られない、あるいはあいまいで通り一遍で誰にでも心地よい、会議前と後とでさして変わらない結論しか得られないのだという。

だから、このセミナは正確に言うのなら、たとえば「正しい問題をつくるためのトレーニング」というべきものなのだ。
「正しい解答」がほしかったら、「必要な問題を立て」なければならない。

セミナでは、ひたすら問題を主体的に「煮詰めて」いく。
そのことで、
「ああ、わたしはこれが知りたかった」
「わたしの疑問は、ほんとうはこれだったんだ」と思い至るのだという。
そして、いままで曖昧模糊としていた問題は、クリアカットされたシンプルな言葉で再構築される。

帰り道、「自分にほんとうに必要な問いをつくる」ことって、じつは組織だけでなく、個人にも適用できるなと感じた。
キャリアデザイン、ライフプラン、友だち/家族/職場関係・・・。

ぼくに必要なのは、解答ではなく、問題なのだ。
そして、おそらくはあなたにも。