慶應鶏肋録

めし、フロ、慶應通信の勉強(卒論)、ついでの雑用とか

<他者目線>に応えるなら、その表現に逃げてはいけない

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かさこ塾同期生で、広島在住のミュージックセラピスト、ポール西さんのブログ「ミュージックセラピスト『ポール 西』の音楽酒記♩(No Music, No Life)」のなかの記事、

  • 「意識」

http://karatepiano.blog.fc2.com/blog-entry-51.html
を一読したときに、
ぼくは反射的に「悲しいかな、人は自分自身が見たいモノしか見ないし、自分自身が聴きたいコトしか聞かないんですよね」とSNSへ投稿した。

そりゃそうかもしれないが、後から考えると、それでは思考停止になってしまう。議論が終わる。それでは詰まらない。
もう少し、自分なりに考えてみる。


ふと思い出したのは、かさこ塾の3回目の授業だったか、塾頭から
「みなさんのブログを毎日拝見して思ったことは、<他者目線>が足りないということです」
と指摘があった。

そのときのぼくのメモには、

「この記事は人が見たらどう思うだろう?」
「この情報は読者にとって重要か」

と書かれている。

<他者目線>というのは、読み手の立場に立つ、という意味で、読み手を意識して書くということなのだろうけれど、これがなかなかに厄介だ。
とくに後者の「この情報は読者にとって重要か」なんて、考えはじめたらキリがない。
今から発信しようとしている情報は、とっくに陳腐になっているかもしれないし、他人にとって重要かどうかなんて、厳密には他人が評価するんだからこちらが解るわけはない。
だから、塾頭は「(記事は)主観的にアップしていい」というようなことを言われていた。

「<他者目線>が足りない」と指摘されたときに、ぼくが思い至ったことのひとつは、

「<成り注>表現に逃げない」

ということである。

「<成り注>表現」というのは、よくニュースキャスターなんぞが、ひとつのニュースの締めくくりとして口にする(と言われていた)、
「今後の成り行きが注目されます」
といったような、ステロタイプな表現のことを総じて言う。
翻ってブログでいうなら、「面白い」「楽しい」「美味しい」「素敵だ」「すごい」とかとかとか。
そういう言葉のたぐい。
ぼくはそれを「自分ジャーゴン」と言っている。ジャーゴンというのは、仲間うちだけに通じる言葉のことで、専門用語とか職業仲間うちにだけ通じる特殊用語のこと。

SNSのつぶやきではそれでもいいだろうが(ぼくだってほとんどそれだ)、外部にきちんと伝えるなら、その表現だけでは、いったい何が(あるいは何で)楽しいのか美味しいのか面白いのか素敵なのかうれしいのか悲しいのか詰まらないのか、解らない。
いったいどんなふうに美味しかったのか、なぜ美味しいと感じたのか、そのときの心境はどうだったのか、いくら写真をデカデカと載せても、どこが感動ポイントなのか伝わってこない。

あなたが感じる美味しさは、ぼくが感じる美味しさとリンクしない。
逆もまた、真なり。

だからテキストを書くときには、いったん「自分ジャーゴン」を捨ててみる。
要するに「美味しかった」「楽しかった」「面白かった」というような陳腐で安易な表現を使わないで、文章を書いてみる。それらをいったん封印して書いてみる。

これは、言うのは簡単だけれど、やってみると苦しいです。
ぼくに到っては「どの口が言う」である。

でも、表現の制約を課すことで、逆に表現の自由は広がりうる。
広角に狭角に、鳥瞰的に虫瞰的に、視点と思考を「意識して」動かさないといけない。自分の持っている言葉や表現を総動員しなくてはならない。「見方」をかえる必要もでてくるだろう。
そして、残念ながら自分のなかのストックなんてあっという間に尽きる。

でも古今の表現者は、それを自力で乗り越えて「表現の自由」を獲得してきた。そして、有難いことに見渡せばそういう事例はいくつも転がっている。それを肥やしにする。おそらく、先人のそのまた先人の表現を肥やしにしてきたんだろう。

そうすることを繰りかえして、自分の感動とか感謝とか失意とか悔恨とか怒りとかといった気持や伝えたいことや目の前の風景に、うまくフィットする言葉や表現が見つけられるようになったり、自分で作り出すことができるようになったりする。

もちろん、それらをストレートに表現することが直ちに相手に「伝わる」というわけではない。例えば、暗号で書いた日記はそれ自体斬新で自分らしい表現かもしれないけれど、そのことと読み手には伝わることとは別問題である。

でも、「自分ジャーゴン」に逃げ込まないことが、<他者目線>に答える表現をつくる第一歩にはなると思うし、これはポール西さんへのぼくなりの答えなんだけれど、どうでしょう、ポールさん。